- 2014-8-11
- 展覧会レポート
- ヨコハマトリエンナーレ, 現代美術
[text and photo by Art inn編集部、中野昭子] 2014/8/11 UP
←左から作家の毛利悠子氏、大竹伸朗氏、横浜トリエンナーレ組織委員会委員長の逢坂恵理子氏、アーティスティック・ディレクターの森村泰昌氏、作家のギムホンソック氏、ヴィム・デルボア氏
(中) 「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」というタイトルを掲げるヨコハマトリエンナーレ2014がはじまりました。
五回目の開催となる今年は、アーティスティック・ディレクターに森村泰昌氏を迎え、400点を超える作品が展示されます。話題性と規模ともども、国内有数の国際展にふさわしいヨコハマトリエンナーレ2014では、どんなアートに出会えるのでしょうか。
公式HP: http://www.yokohamatriennale.jp/
会 期: 2014年8/1(金)-11/3(月・祝) 開場日数:89日間
※休場日:第1・3木曜日(8/21,9/4,9/18,10/2,10/16)
開場時間:10:00-18:00
※入場は閉場の30分前まで (9月13日[土]、10月11日[土]、 11月1日[土]は20:00まで開場)
主会場:横浜美術館、新港ピア(新港ふ頭展示施設)
(中) 今回のテーマ「華氏451」はレイ・ブラッドベリの著作『華氏451度』から引用されています。ブラッドベリの著作の中では、禁じられた本は焼き捨てられなければならず、人々は対抗手段として本の内容を暗誦するようになります。
森村氏は声高にアピールされることではなく、沈黙や見えないものの豊かさに目を向けてほしいとのこと。日常で忘れ去られているものを意識に浮上させる。それは確かにアートの一つの側面であり、今回の展示全体の構成にも密接に関わっています。以下、ふたつの序章と11の挿話からなる展示の中で、特に印象に残ったものを中心にご紹介します。
◆横浜美術館
序章
マイケル・ランディ《アート・ビン》2014,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) ヨコハマトリエンナーレ2014(以下、ヨコトリ2014)の主会場は横浜美術館と新港ピア(新港ふ頭展示施設)ですが、横浜美術館に入るとすぐに、巨大な透明の容器が目に入ります。これはマイケル・ランディの作品『アート・ビン』で、芸術の失敗作のためのゴミ箱の役割を果たすものだとのこと。
内覧会当日は、出品作家と森村氏が自分の作品を捨てており、透き通った箱に大きな紙が投げ込まれたり、白い紙がひらひらと舞い落ちる様子は圧巻でした。今後も過去のヨコトリの出品作家が自作を投棄していくそうです。
第1話 沈黙とささやきに耳をかたむける
イザ・ゲンツケン《世界受信機》2011,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) コンクリートでできたラジオは音を発することはありません。しかしながら観客は、もの言わぬラジオが何も受信していないとは言い切れません。この『世界受信機』と題された作品は、通常は聞こえない周波数の音や声を拾い上げている可能性があります。
(編) 森村さんの開催趣旨にもあったように「沈黙や見えないものの豊かさに目を向けてほしい」というのはこの作品にピッタリなような気がしました。
ギムホンソック《8つの息(MATERIAL)》2014,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) 膨らませた青い風船が連なるこの作品は、見た目は8つの風船であり、8人分の息を収集したものに思えますが、実際はブロンズでつくられています。そのため室内だけではなく、屋外のいくつかの場所にも設置可能となりました。
またヨコトリ2014のシンボルともなっているクマもまた、ギムホンソックの手によるもので、こちらもブロンズで作られた立体となっています。
第2話 漂流する教室にであう
釜ヶ崎芸術大学「それは、わしが飯を食うことより大事か?」2014,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) 釜ヶ崎芸術大学とは、NPO法人こえとこころとことばの部屋(ココルーム)が主催する自主プログラムの総称で、大阪の釜ヶ崎と呼ばれる地域を拠点に実施されています。
今回の展示内容としては、参加者が制作した作品や講義ノートや学びの場そのものを、観る者に体感させながら再現する形になっています。
第3話 華氏451はいかに芸術にあらわれたか
Moe Nai Ko To Ba,2014,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) 本展のテーマ『華氏451』へのオマージュとなるこの作品は『Moe Nai Ko To Ba』と題される本で、複数のアーティストによる詩や戯曲や素描が収録されています。この作品は自由に閲覧できますが、会期終了後には「消滅パフォーマンス」によって消えゆく運命を担います。
マイケル・ラコウィッツ《どんな塵が立ち上がるだろう?》2012,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) イラク=ユダヤ系であるマイケル・ラコウィッツは、アメリカと中東という複雑な関係性に注視した作品を提示します。本展では、燃えてしまったカッセルの図書館の蔵書を、タリバンが破壊したアフガニスタンの古代遺跡バーミヤンの石仏の石でかたどったものや、ソ連の戦車をもとに作られた石仏彫刻用の道具などを出展しています。
作品の一つにはタリバンの一員、ムラフ・モハマド・オマルーの言葉が書かれています。彼は外国人が、餓死寸前の人間のことは気にかけず石仏の心配をしていることに憤り、仏像を破壊したのだと言います。ムラフの行為は正当化できませんが、感情は理解できます。価値あることを成すのも、それを破壊するのも、破壊を引き起こす要因となるのも同じ人間であり、それらは無限に連鎖しているのだと思います。
ドラ・ガルシア《華氏451度(1957年版)》2002
(中) まるで店頭売出中のベストセラーのように並べられた本。これはいずれも、今回のヨコトリ2014のテーマになっているレイ・ブラッドベリの著作『華氏451度』ですが、中身は鏡文字で綴られています。
ドラ・ガルシアの作品は「鑑賞者/作品/空間」の関係を扱います。読めない本が書店にあっても、売れることはないでしょう。しかし「華氏451度」というテーマを掲げるこの会場では、作品として成立するのです。
『華氏451度』では本の内容を覚えることで伝達します。読めなければ暗記もできませんが、そもそも内容が分からなければ焚書にする判断も下せません。もしも『華氏451』の世界が現実化しても、この本は最後まで生き残るのかもしれません。
第4話 たった一人で世界と格闘する重労働
毛利悠子《アイ・オー―ある作曲家の部屋》2014,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) 鍵盤やドラムが並ぶ作品は毛利悠子のインスタレーションで、来場者が持ち込むホコリを感知して楽譜を自動生成するとのこと。楽譜という精緻にコントロールされたものに偶発性を持ちこむこの試みは、制御の支配する領域と制御不能な領域のせめぎ合いなのでしょう。
第5話 非人称の漂流~Still Moving
(中) 法廷(Court)とテニスコート(Coat) が表裏一体となっており、また牢獄が控えているこの作品は、1983~85年に林剛+中塚裕子が発表した「Court」シリーズを再解釈し、課題を再配置したものです。
Temporary Foundation《法と星座・Turn Coat/Turn Court》2014,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) 法廷にはレコードプレーヤーがあり、後日「日本国憲法」をラッパーやDJがプレイするそうです。赤く塗られた法廷で糾弾されるものと、緑色のテニスコートで勝敗を分かつもの、そして青く塗られ鏡にとりまかれた牢獄に閉じ込められるものは何なのでしょうか。
(編) 法廷もテニスコートも対抗する勢力同志が闘うという点では共通しているので、意味もわかりやすいし、モニュメンタルで分かりやすい作品だなと思いました。
第6話 おそるべき子供たちの独り芝居
グレゴール・シュナイダー《ジャーマン・アンクスト》2014,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) 横浜美術館は光で満たされた現代的な建物ですが、グレゴール・シュナイダーの作品はエレベーターで降りなければ着けない場所にあります。暗い小部屋に入ると、中は泥のほかには何もないような場所があるだけです。
ここの泥は流動的で液体に近く、ひっかきまわしても形を成しませんが常に残るので、儚さとは無縁な不気味さがあり、忘れたくてもなんとなく意識に引っかかります。
アリーナ・シャポツニコフ《写真彫刻》1971/2007,他,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) モノクロ写真に写ったぐにゃぐにゃした物体は、作家であるアリーナ・シャポツニコフが噛んだガム。シャポツニコフはユダヤ人で、第二次大戦中に強制収容所に送られ生き残るという体験をしています。
被写体はガムでありつつも、人間の軟骨や臓器、しわのよった皮膚など、完全ではない人体の一部のように見えます。また乳房などをかたどったランプの彫刻もあわせて展示されています。
第7話 光にむかって消失する
三嶋りつ恵《涙の光》2013,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) 横浜美術館にはカフェがあり、華氏451にちなんで451円に値段設定された飲み物などもあります。ここは光がさんさんとふりそそぎ、壁の優しい白さが活かされた素敵な空間なのですが、中でも親子である三嶋安住の水彩画と、三嶋りつ恵のヴェネチアングラスのインスタレーションがとりわけ明るい光を放っています。
(編) 夏ですし、ガラスの作品は涼しくてよいですね。カフェの開放的な雰囲気ともよくあっていました。
第8話 漂流を招きいれる旅、漂流を映しこむ海
(中) このセクションで開催されるのは、高山明のライブ・インスタレーションとトヨダヒトシのスライドショーで、高山の作品は10月末より黄金町のnitehi worksで、トヨダの作品は8月9日より順次上映される予定となっています。
第9話 華氏451を奏でる
(中) ヨコトリ2014と重なる時期に実施されている札幌国際芸術祭との同時企画で、同芸術祭のゲストディレクターである坂本龍一氏と森村泰昌氏の共同企画で、イベントを開催する予定となっています。
◆新港ピア
第10話 洪水のあと
(中) ヨコトリ2014は、今年で5回目の開催となる福岡アジア美術トリエンナーレの現出品作家と過去の出品作家の作品を選び、社会問題が引き起こした荒廃や、記憶の抹殺を象徴する「洪水のあと」をテーマに掲げて映像作品を展示します。
第11話 忘却の海に漂う
やなぎみわ《演劇公演『日輪の翼』のための移動舞台車》2014,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) 入ってすぐに目につくのはやなぎみわのトレーラー。こちらは中上健二原作の舞台『日輪の翼』のための移動舞台車で、台湾で制作されたものです。
やなぎみわ《演劇公演『日輪の翼』のための移動舞台車》2014,Installation view of Yokohama Triennale 2014
一見白とピンクのかわいい彩色が施されたトレーラーに見えますが、実はトレーラー部分の上部と壁面が開き、中はサイケデリックな色調の花が乱舞しています。
大竹伸朗《網膜屋/記憶濾過小屋》2014,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) 作品自体が個人の雑多な記憶の集積とも言える大竹伸朗の作品は、今回のヨコトリ2014のテーマに最もふさわしいものの一つと言えるでしょう。 古今東西さまざまな文化交流を生み出した横浜という場所は、表面的には整いつつも、どこかに消化されない混沌を内在しているはずで、大竹伸朗の作品はそうした見えないカオスを拾い上げる可能性があります。
(編) やっぱり見ごたえあります。納得の安定感。
大竹伸朗《網膜屋/記憶濾過小屋》2014,Installation view of Yokohama Triennale 2014
(中) 小屋の中をのぞくと巨大な目玉が。大きな瞳の網膜は無名の家族写真を捉え、さまざまな記憶を紡いでいくのでしょうか。一般に記憶は曖昧なもので、仮に当事者であっても、断片的な部分しか覚えていないものです。主要な記憶から取りこぼされた映像の切れ端は、この小屋で未整理の写真という形で結集し、他者の視線というフィルターを介して拾い上げられるのを待っているのかもしれません。
その他
(中) 新港ピアには公式ショップが出入り口付近にありますが、特に目につくのはヨコトリ2014のタイトルがデザインされた「ヨコトリウォーター」。「猛暑を『忘却』してください」という説明書きに、思わずにやりとさせられます。
(中) そして作品を鑑賞し終えた後に至りつくのが、海の見えるカフェ・オブリビオン。さまざまな限定メニューのほか、オリジナルパッケージの焼き菓子セット「菓子451」も販売されています。
(編) ピザボール美味しかったなぁ。おススメです。
(中) ヨコトリ2014の期間だけオープンするこの場所では、忘却の海の作品を見終えると横浜の海が眼前に広がり、展示全体の終着点であることを感じさせます。
(中) ヨコトリ2014のテーマのソースとなった書籍『華氏451度』の中で、生ける本となることを選んだ人々の指導者グレンジャーが、以下のように語るシーンがあります。
人間である以上、死ぬときはかならず、あとになにかを残しておくべきだ。[……]おまえの手が加わる以前と、おまえの手を引いたあととをくらべて、なにかお前を思い出せるだけのものがのこっておれば、それでいいのだ。(レイ・ブラッドベリ『華氏451度』 早川書房、1975年、263頁)
ヨコトリ2014で出品したアーティストたちは、語る内容は様々ですが、自分たちの痕跡を、作品でもってこの世に残し続けていきます。そしてグレンジャーの言う「あとになにかを残しておく」ことは、なにかを生み出す作家の行為だけではなく、自分が価値を見出した他者の創作物を保存し、引き継いでいく行為も含まれるのではないでしょうか。
記憶することは選択することです。またこの情報化社会において、知られていないことは存在しないこととほぼ同義ですし、今後その傾向はますます強くなっていくことでしょう。鑑賞者である私たちは、潜在的な鑑賞者や次の世代に、忘却されるべきでない作品をリレーしていくことで、豊かな伝承者となりうるのだと思います。