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 モンゴル帝国からやってきた一山一寧(いっさん・いちねい)って誰?

重要文化財 一山一寧墨蹟(雪夜作)鎌倉時代・正和4年(1315)/建仁寺



  朝青龍のモンゴル帰国問題で騒々しい昨今の日本であるけど、モンゴルといえばチンギス・ハーン(成吉思汗)。チンギス・ハーンは中国大陸に「元」という国を築いたモンゴル帝国初代皇帝だ。
 その「元」といえば、鎌倉時代に日本を襲った「元寇」。 これは元が2度に渡って日本侵略を図った戦で、当時の政権は元の侵略軍を何とか撃退したものの、その損害は鎌倉幕府滅亡の大きな要因ともなった。
 2度の侵略失敗後、元は日本側に何度も使節を送っている。平和裏に日本を属国としようとしていたらしい。しかし鎌倉幕府は、元の使者たちをことごとく処刑していた。使者が日本をスパイし、3度目の侵略を仕掛けてくるのを恐れたのだ。
 そんな時代に、なぜか殺されなかった使節がいた。それが、一山一寧(いっさん・いちねい)なのである。
 
 一山一寧が処刑されなかった主な理由には、彼が高僧であったことと、西澗子曇(せいかんすどん)という名僧を伴って来日したことがあげられている。
 西澗子曇は文永8年(1271年)から8年間の滞日経験があり、鎌倉の禅門に知己が多かった。元の日本襲来は1274年と1281年である。つまり西澗子曇は最初の元寇以前に来日し、2度目の元寇以前に帰郷していたわけだ。

 2度目の元寇から18年後の1299年に来日した、一山一寧は、とりあえず処刑を免れ、伊豆の修繕寺に幽閉された。幽閉中に一山一寧は修行の日々を送っていたそうだ。
 また西澗子曇と知己の日本の禅僧たちが、一山一寧の赦免に奔走したらしい。つまり、西澗子曇を慕う僧たちがたくさんいたというわけだ。

 鎌倉幕府の執権・北条貞時はやむなく一山一寧の幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した。
 幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れたという。
 一山一寧は禅僧として、よほど魅力的だったに違いない。
 一山一寧の人気を知った北条貞時は、永仁元年(1293年)の火災によって衰退していた建長寺を再建し、なんと一山一寧を住職に迎えることになる。しかも、貞時は自ら一山一寧に帰依したのだ。

 その後の一山一寧は、日本における禅宗の発展に、なくてはならぬ人となった。
 円覚寺、浄智寺の住職を経て、正和2年(1313年)には後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世となった。また、帰一寺(静岡県賀茂郡松崎町)、慈雲寺(長野県諏訪郡下諏訪町)などの開山となり、正統の臨済禅の興隆に尽力する。
 一山一寧は、学識人物に傑出し身分を問わず広い層に尊崇され、門下からは雪村友梅ら五山文学を代表する文人墨客を輩出した。自身も能筆家として知られ墨蹟の多くが重要文化財指定を受けている。また朱子の新註を伝え日本朱子学の祖ともされている。
 そして、来日から18年後の文保元年(1317年)10月、南禅寺で病没したのだった。

 東京国立博物館で開催中(2007年9月9日まで)の「足利義満600年御忌記念『京都五山 禅の文化』展」では、一山一寧の代表的な草書をはじめ、彼と関連のある作品をたっぷり鑑賞できる。


臨済宗相国寺管長 有馬賴底師 筆

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