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 ―大江戸マルチ文化人交遊録― 「大田南畝」ってどんな人?
石崎融思「大田南畝肖像」(部分)(個人蔵)

  このコラムでは、大田南畝(おおたなんぽ)に関し、
1.南畝の隠れた業績2.南畝に所縁のある地所
(筆者が住む東京都内限定ですが)を紹介します。

1.大田南畝の隠れた業績・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

水泳の達人
 一般の日本人が海水浴など水泳にいそしむようになるのは明治になってからで、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン先生自らが行い、健康に良いとの理由で廻りの日本人にも奨めたことから次第に普及したものです。江戸時代までは、限られた家々で水泳の技術を親子代々引継いで来たのでした。大田家もその様な家柄で、1773(安永2)年8月に開催された十代将軍家治上覧の水泳大会では、南畝も泳者の一人として参加し褒美に時服を賜ったといいます。
本邦初のグルメ本出版
 南畝は、1784(天明4)年に小説本「頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)」を発刊しましたが、これは現在の江東区木場六丁目辺にあった高級料理店「枡屋」の料理に対し、江戸の他の著名な料理屋全てが料理で一戦を挑むというストーリーで、実名の料亭と料理が数多く出てくることから、「本邦初のグルメ本」と云われる様になったそうです。
昌平黌(しょうへいこう)の試験でトップ合格
 昌平黌とは、幕府が「湯島聖堂」(文京区湯島1-4-25)内に設立した昌平坂学問所のことで、当時南畝は47歳と高齢ながら、五日間にも及ぶ試験を受験し、見事首席で合格しました。
初のコーヒー飲用体験記を著す
 南畝は狂歌に秀れ辞世を風刺したため、幕府の逆鱗に触れ左遷されたこともあります。
その一つに、1804(文化元)年から翌年に掛けての長崎奉行所勤務がありました。長崎には18世紀までにはコーヒーが輸入されていて、新しいもの好きの南畝が早速試飲し、日本人による本邦初のコーヒー飲用体験記「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」を著わしました。それには、『紅毛船にてカウヒイといふものを飲む。豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず。』と記しているそうです。
「土用の丑の日」にウナギを食べる習慣の発案者
 発案者には諸説あり南畝一人に限定できません。南畝説の経緯については、「神田川」という鰻屋に頼まれ、「土用の丑の日に、ウナギを食べたら病気にならない」という内容の狂歌を作って宣伝し、大ヒットしたというものです。

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2.大田南畝所縁の地所・記念碑など・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


南畝が生まれてから60年ほど住んだ牛込の地(新宿区北町41)

 残念ながら、同地に南畝所縁の記念碑などは有りません。
ですが、南畝にとっては一番所縁が深い地所と申せましょう。
南畝生誕の地

上野公園の「蜀山人の碑」(台東区上野公園4番)

 この記念碑には、「一めんの花は碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲 蜀山人」と、
南畝の自筆が刻してあります。
上野公園

向島百花園の「扁額」(墨田区東向島3-18-3)

 百花園の庭門には、南畝が「花屋敷」と記した扁額が掲げられています。残念ながら、本物の扁額は火事で消失しましたが、現在の扁額は本物と寸分違わず復元されたと言います。
向島百花園1 向島百花園2
向島百花園庭門 向島百花園扁額

東覚寺の「蜀山人の狂歌碑」(北区田端2-7-3)
 同寺院は、赤紙をベタベタと貼った石造金剛力士立像(通称、赤紙仁王)が有ることで有名ですが、ここには南畝が寄進した竹型の石造も有ります。これには、蜀山人の狂歌「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」と刻してあるそうですが、残念ながら判読しかねますね。

東覚寺赤紙仁王 東覚寺竹型石造1 東覚寺竹型石造2

熊野神社の「水鉢」(新宿区西新宿2-11-2)

 都庁傍の新宿中央公園に隣接する同社は、十二社(じゅうにそう)とも呼ばれていますが、ここに南畝が寄進した水鉢があり、それには本名の「大田覃(ふかし)」と刻して有ります。
熊野神社水鉢1 熊野神社水鉢2

南畝終焉の地(千代田区神田駿河台4-6)

 同所には、千代田区役所が設置した「蜀山人 終焉の地」と記した案内板があります。それには、南畝辞世の句、「生き過ぎて 七十五年食ひつぶし 限りしられぬ 天地の恩」が記して有ります。
蜀山人終焉の地

谷保天満宮(国立市谷保5209)
 同社は、南畝によって「野暮天」の語源になった神社なのです。その経緯について、当時の同社が貧乏天神だったかどうかは判りませんが、神無月の頃、目白辺りで開帳を行い賽銭稼ぎをしたところ、それを目撃にした南畝は「調布日記」という紀行文に、「神ならば出雲の国に行くべきに目白で開帳やぼの天神」と記したことから、野暮な人、無粋なことなどを指す言葉として、「やぼの天神」略して「野暮天」という言葉が生まれ、今に至っています。補足しますと、神無月とは旧暦10月を指し、この月に全国の神様が出雲に参集することから付いたものであり、逆に、出雲に限っては「神在月」と呼ぶそうです。
 今の同社は、『木造獅子狛犬』、『木造扁額 額文「天満宮」』という二つの国指定重要文化財を所蔵し、さらに比較的広大な神社の杜は、「谷保天満宮の社叢(しゃそう)」と呼ばれ都指定天然記念物になっています。寺社めぐりを趣味の一つにしている筆者にとって、同社は気に入っている神社の一つでもあります。因みに、同社の名は「やぼ」ではなく、「やほ」なのは言うまでもありません。



[text by 阿部 隆(IHIエスキューブ)]

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