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 阿部さんコラム:検証 坂本龍馬!
 2008年7月23日(水)~8月31日(日) に、京都国立博物館で開催中の「特集陳列 坂本龍馬」にちなみ、坂本龍馬にまつわるあれこれを、Art innでも掘り下げてみようと思います。
夏休みの真っ最中、日本の歴史に触れてみるのも良いでしょう。

そこで、「大田南畝」ってどんな人?に続く第二弾!
我がIHIエスキューブきっての歴史愛好家、阿部 隆氏による検証のスタートです!

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はじめに

 坂本龍馬(1835-1867)を、日本の歴史にいただくことを誇りに思うのは筆者だけではないでしょう。

 例えば、明治維新の原動力となった「薩長同盟」は龍馬がいて初めて成り立ったものであり、
生国の土佐藩を通して最後の将軍徳川慶喜に「大政奉還」を進言したのも彼であり、
明治政府の基本方針を示した「五箇条の御誓文」は、龍馬が起草した「船中八策」が下敷きになっているとも云われ、
また長崎に貿易結社「亀山社中(後の海援隊)」を組織するなど、その爆発的な行動力には圧倒されます。

 筆者も30年ほど前になりますが、司馬遼太郎著「龍馬がゆく」を読んで、
ワクワクさせられたことを今でも頭の片隅に留めています。

 ただし、その後、都市としての江戸を初めとした歴史を掘り下げて勉強するようになったことで、
龍馬がゆく」の内容に関して、ふと疑問に思える部分がいくつか見受けられました。

 今回のコラムでは、この点を綴りたいと思うので、皆さんのご意見などをいただければ幸いです。

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1.土佐藩の江戸藩邸について

 龍馬は、1853(嘉永6)年に剣術修行のため江戸に出て来て、「龍馬がゆく」では「土佐藩上屋敷で旅装を解いた」といったような表現をしていますが、この部分は大いに気になる点です。

 何故ならば、土佐国は元々長宗我部家が治めており、関が原の戦い後に、遠江国掛川より山内一豊が土佐に入り、土佐山内家の初代となりました。


土佐藩上屋敷&桶町と千葉道場_現代

 そして藩士は、一豊と共に土佐入りした家臣を上士、長宗我部家以来の家臣を郷士と差別し、幕末まで至っています。

 結論を述べると、郷士の龍馬は上屋敷に上がるのははばかられ、土佐藩の中屋敷に上がったものと思われます。因みに、上屋敷は「東京国際フォーラム」(千代田区丸の内3-5-1)の北側半分ほど、中屋敷は「中央区役所」(中央区築地1-1-1)や、「築地警察署」(築地1-6-1)などを含む周囲一体に、それぞれ当たります。


土佐藩中屋敷_現代

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2.桶町と千葉定吉道場の場所について

 旅装を解いた龍馬は、幕末の剣豪で北辰一刀流の開祖、神田お玉が池にある千葉周作の「玄武館」(千代田区神田東松下町25)に入門しようと試みますが、当時周作は病の床に伏しており、依って周作の実弟である千葉定吉(さだきち)の道場に入門しました。


千葉周作_玄武館_現代


 定吉道場の場所ですが、「龍馬がゆく」では桶町と紹介していますが、これが次なる疑問です。
 
 桶町とは現在の中央区八重洲二丁目の内にあった町屋で、正確には3・4番地に当たります。しかし、ここに定吉道場はありません。嘉永7年江戸切絵図には、鍛冶橋外の「カノヲ シンミチ(=狩野新道)に千葉定吉の名を見ることが出来ます。

 現在の住所表示では、「大星八重洲ビル」(八重洲2-8-8)地先の鍛冶橋通りの中、ということになろうかと思われます。これは、鍛冶橋通りの開削に伴い、町屋が二筋なくなったことを意味します。
千葉周作玄武館跡の碑

 千葉定吉道場跡には何も残っていませんが、千葉周作の玄武館跡には、いくつか有りますので、これに触れたいと思います。  旧「千桜小学校」(神田東松下町22)には、千代田区役所が建てた「千葉周作玄武館跡・東條一堂の瑶池塾」の碑と、明治神宮宮司らが建立した「右文尚武」の碑があります。

 当時、「玄武館」の西隣に東條一堂の学塾があり、どちらの碑もこの両者を取り上げたものです。なお「右文尚武」とは、学問を重んじ武事を尊ぶ、という意味だそうです。
右文尚武の碑


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3.神戸海軍操練所の関連について

 神戸海軍操練所(神戸市中央区新港町周辺)は、1864(元治元)年5月に、軍艦奉行勝海舟の建言により、幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関であり、海舟が所長を、龍馬が塾頭を勤めたといわれます。
 然りながら、海舟は保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活に入り、同所は翌慶応元年に廃止されました。

 ここからが本題で、「龍馬がゆく」には、同所で操船用に幕府から借用していた練習船を、幕臣肥田浜五郎が現地に赴き、龍馬から受取るシーンが登場します。


勝海舟赤坂邸_現代

 肥田浜五郎は、幕末の石川島造船所で建造した、我国初の蒸気軍艦「千代田形(ちよだがた)」の機関設計を成した方で、依って「株式会社IHI(旧 石川島播磨重工業)」の社史にも登場するのですが、慶応元年当時浜五郎は、横須賀造船所の工作機械を購入のためオランダに派遣され、依って日本には居なかったのです。

 現に、別件でオランダに派遣されていた榎本武揚らと、現地で撮った写真が残っています。という訳で、この点も「「龍馬がゆく」には疑問符が付くのです。
勝海舟邸跡
 参考図は、龍馬に一番の影響を与えたと思われる勝海舟の赤坂邸を取り上げます。江戸図も現代図にも①~③の符号を付けましたが、これは両国から移った後の海舟邸の順番を指します。

 ①は港区赤坂3-13-2で1846(弘化3)年以降、②は赤坂6-10-39で1859(安政6)年以降、③は赤坂6-6-14で明治以降に、それぞれ住んだ住居です。因みに、③には「史跡 勝安芳邸跡」の石碑と樹齢400年の大銀杏があります。
正確には「都指定旧跡 勝安芳邸跡」が正しく、安芳とは明治後に改名した海舟の本名。
勝邸大銀杏


[text by 阿部 隆(IHIエスキューブ)]
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