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 奈良国立博物館「平城遷都1300年記念 大遣唐使展」

平城遷都1300年記念 大遣唐使展
[ text and photo by こいさん] 2010/06/03 UP

会期
2010 年4月3日(土)~6月20日(日)

命をかけても伝えたかった―
日本外交史の曙ともいえる7、8世紀、熱い想いを胸に当時の中国、唐へと渡った先鋭たちがいた。
山上憶良、阿倍仲麻呂、吉備真備、最澄、空海ら遣唐使である。
航海術の未発達な時代において、大海原を越えての入唐(にっとう)は、命がけの行為であった。
彼らが命を賭しても伝えたかった、成しえたかったこととはどのようなことだったのであろうか。

本展は、平城遷都1300年を記念し、約260点もの展示品から、遣唐使のあり方を多角的に捉え、全容を紹介しようとする企画である。以下、4点の展示品を軸にレポートしたい。


井真成墓誌 伝中国陝西省西安市東郊出土

会場に入って最初に目を引かれた展示品は、『井真成墓誌』であった。
井真成(せいしんせい)は、吉備真備、阿倍仲麻呂、玄昉らと共に入唐したと考えられる留学生で、若くして異郷に没した。
この墓誌は、石灰岩を直方体に整え、上面を平らに磨いた部分に文字を刻んだ蓋つきの石墓であり、
そこには真成が勉学に励むものの36歳で急逝し、その早すぎる死に心を痛めた皇帝の詔により、葬儀が行われたこと、真成の魂が故郷に帰れることを願うといった内容が刻まれている。
志半ばで早世した前途有望な青年の無念を思うと共に、皇帝自らが異国の一留学生の死を悼んだという記述に目頭が熱くなった。
この墓誌は、真成の生きた証であるとともに、義に厚い大国唐の懐の深さを示すものでもある。


平城遷都1300年記念 大遣唐使展
二体の観音菩薩立像

8世紀、前世紀以来の中央集権国家の樹立を実現させた日本にとっての次なる課題は、政治と文化を両輪とした国家の充実を図ることであった。こうした方針は聖武天皇の標榜した鎮護国家思想へと結実する。
当時最新の思想である仏教を理解し、その体現ともいえる仏像や仏画を独力で制作できるということは、高度な造形技術と、それを結集しうる強大な権力を持つ、一級の文化国家としての証左となりえただろう。
遣唐使がもたらした質の高い造形芸術は、時を経ずして日本で開花する。
今回の展示の眼目ともいえる、米国ペンシルバニア大学博物館所蔵の『観音菩薩立像』(石造・706年)と奈良薬師寺所蔵の『聖観音菩薩立像』(銅造・飛鳥~奈良時代)の共演は、我々に様々な示唆を与える。
直立する体勢、薄い衣を通して直線的な脚のラインがうかがえる点、下半身の衣文の処理などの共通点から、ペンシルバニアの仏像は薬師寺の仏像の源流とされてきた。
たしかに、馥郁として安定感のある健康的な肉体美、それを包む美しい衣文線と装身具を理想的に写し取っている点など一目でその類似性を知覚することができる。細部についてはどうだろうか。
唐で制作された仏像は、あごを少し上げ気味にしてまっすぐとこちらを見据え、広く三千世界を見渡し、救いの求めに応じる準備が整っているという印象を与える。
それに対し、7~8世紀に日本で制作された薬師寺の仏像は、あごを引き半眼にて深い瞑想の表情を漂わせ、若々しく明朗な表情の奥に、内省的な静謐さをたたえているように見える。
また、素材の違いに着目すると、ブロンズ彫刻である後者が、光を反射し影とのコントラストを鮮明にすることにより、瑞々しい体躯の張りをより一層印象深くすることに成功しているのに対し、石像である前者は、全身に細かな装飾をまとっているにもかかわらず、それらの存在が主張的でないために全体として調和した印象を与えている。
奈良時代の仏師は、唐の像のどの要素に価値を見出し、既に持っている技術に加えようとしたのか。
それを紐解く鍵を握った二尊は、ただ静かな笑みをたたえている。


平城遷都1300年記念 大遣唐使展
吉備大臣入唐絵巻

「白紙に戻そう遣唐使」の語呂合わせで覚えた遣唐使の停止は、平安初期894年に菅原道真の建議により実行に移された。
以来、公的な外交は途絶え、300年の長きにわたって続いた外国文化の消化・吸収段階に終止符が打たれ、国風文化の醸成期を迎えることとなる。
現在ボストン美術館所蔵の『吉備大臣入唐絵巻』は、平安後期に成立したもので、希代の絵巻蒐集家として有名な後白河法皇のコレクションの一部と考えられている。
唐において捕らわれの身となった真備が、知恵と勇気で見事相手を打ち負かす様子を躍動感あふれる筆致で描いた絵巻であるが、内容としてはいささか荒唐無稽ではある。次に簡単な内容を紹介しよう。
真備の聡明さを恐れ妬んだ唐の皇帝は、真備を拉致して高楼に幽閉してしまう。
そこで難解の書として知られる『文選』の試読や、囲碁の対戦など、次々と難問を出し真備を窮地に立たせるが、真備は、自らの神通力や、やはりその才能のために嫉妬を買い高楼で餓死させられた阿倍仲麻呂の化身である鬼の助けによって次々とクリアしていく。
『文選』の試読は、飛行自在の術を使って宮中に忍び込み、問題を盗聴して事なきを得、囲碁の名人との勝負では、仲麻呂のアドバイスを受けるものの苦戦を強いられ、最後は相手方の碁石を飲み込み辛くも勝利する。
いずれの場合も、かなり姑息な手段を使ってその場を凌いだといった具合であるが、登場人物のユーモラスな表情やひょうきんな仕草により、荒唐無稽さが返って味になりうるものだと感心させられた。
絵巻の中で繰り返し対峙的に描かれる皇帝と真備は、当時朝貢関係を迫ってきた宋と日本の関係を彷彿とさせる。
矮小ながらも叡智と結束力で大国相手に一泡吹かせるといった痛快なストーリーは、対外関係に悩まされていた後白河法皇の閉塞感を和らげるものとなったかもしれない。
なお、鬼として登場する阿倍仲麻呂は、史実では真備と同時期に遣唐使として入唐し、玄宗皇帝に寵遇され唐の高官にまで上り詰めた人物である。したがって、真備が唐に渡った時には存命であり、ましてや高楼で冷遇などは受けていない。


平城遷都1300年記念 大遣唐使展
おわりに

盛唐期において使節を派遣していた国は日本だけではなく、現在の朝鮮半島に栄えた新羅、渤海などを含む東アジアから、7世紀の成立以来、交易を盾に空前の勢いで栄えたイスラム諸国まで、その数は50カ国にものぼったという。
当然その中で序列をめぐる熾烈な戦いが繰り広げられていたことは想像に難くない。
遣唐使の使命は、当時の先進国、唐から最新の知識、情報、文物を伝えることは上で述べたとおりであるが、唐を中心とする東アジアやイスラム諸国が肩を並べる国際社会の中で、わが国日本の地位を確立するという、いわば壮大な椅子取りゲームに、常に勝利し続けるということであった。
その意味で遣唐使の派遣には、強い政治的、外交的側面があったのである。
帰国後、吉備真備は橘諸兄のもとで国政の中心に迎えられ、多くの功績を残した。こうした輝かしい栄達は後世における完全無欠な英雄像の成立を促し、『吉備大臣入唐絵巻』のような作品を生み出す土壌を作った。
しかし、歴史に名を残せる人物は限られており、その影には、何百という井真成が儚くもその命を散らせたことであろう。
そして世にも類稀なる造形美をこの世に送り出しながら、そこに自己を証明するいかなる印も残さなかった謙虚な仏師たちの存在も忘れられない。
国家として誕生して間もない日本の成長をそれぞれの立場で担い、時には命を差し出しす覚悟をもって渡り歩いた人々の時代、遣唐使の時代が我々を惹きつけて止まないのは、そのひたむきな若々しさなのではないかと思う。

以下の歌は、唐の詩人李白、王維などとも親交の深かった阿倍仲麻呂の作として伝わっている。
仲麻呂は、晩年において数回の帰郷を試みたがそのたびに遭難し、現在の沖縄に漂着したものの、
ついに祖国日本の土を踏むことはなかった。白洲正子は、この歌に想いを馳せ、次のような記述を残している。
「故郷に帰る望みも絶え、老いた詩人の目に、南国に特有な赤く暑い月がうつった。その瞬間、
昔大和で眺めた清らかな月を思い出し、なつかしさのあまり自然に口をついて出たのではないかと想像したことがある」

阿倍仲麻呂 - 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも


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