「第3回府中ビエンナーレ
美と価値 ポストバブル世代の7人」展
第3回府中ビエンナーレの出品作家たちは、バブルが崩壊した1990年代初頭からの10年間(ここではポストバブルと呼ぶ)に本格的な制作活動を始めています。安泰であるかに思われた価値がやすやすと転覆する現実を目の当たりにし、長期化する不況の中で閉塞感にさいなまれた、ポストバブル世代。
彼らは、それまで拠り所としていた美術の共通の価値基盤を失ったと同時に、美術作品に価値が備わる仕組みに自覚的にならざるをえませんでした。彼らが、既存のイズムや特定の価値観との間に距離を取り、「美の価値」に懐疑の眼を向けていると感じられるのはそのためでしょう。彼らの姿勢には、作品の価値形成に作家が関わるのはどの部分なのか、どのように関わるのか、あるいは関わらないのかという問いへの真摯な取り組みがうかがわれます。
価値観の多様化、多元化が進行する現在、共通の「美の価値」も見いだしにくくなっています。その中で作家たちは、独自の方法論に基づいて作品を制作し、強度のある作品世界を築こうとしています。彼らの現在進行形の活動の中に、現代の「美」や「価値」の行方を、どうぞ探ってみてください。
開催期間
2006年10月21日(土)-12月24日(日)
休館日
月曜日
観覧料
一般600(480)円、大学高校生300(240)円、中学小学生150(120)円
※常設展料金を含みます。 ※( )内は20名以上の団体料金。
※未就学児および障害者手帳をお持ちの方は無料です。
※市内の小中学生は「学びのパスポート」をご利用ください。
電話
03-5777-8600(ハローダイヤル)
開催場所
府中市美術館
東京都府中市浅間町1丁目3番地(都立府中の森公園内)
交通案内
※詳細はホームページをご覧ください。
Editor's review
よく晴れた日曜の午後1時過ぎ。初冬の澄んだ空気の中、色づいた紅葉をバックに家族連れが記念写真を撮っているほどよい広さの公園を抜け、私は府中市美術館に到着した。今回初めて訪れるこの美術館は、なんとも静かな風景の中にあった。
今回で第3回目となる府中ビエンナーレ、副題は「美と価値 ポストバブル世代の7人」。若手作家の育成を活動テーマのひとつとして掲げる同美術館が隔年で開催しているグループ展だ。
「方法論を重視している点」で集められた若手現代美術家は、大竹敦人、境澤邦泰、松井茂、小林耕平、窪田美樹、森本太郎、豊嶋康子の7人。いずれもバブル経済が崩壊した1990年代初めに、本格的な作家活動を始めた。あらゆるものごとの「価値」が大きく揺らいだこの時期、価値観そのものに明確なかたちは無く、普遍性という意味さえも疑われてしまう中で、美術を通して自ら価値形成をしていくことで、この不確かな社会とつながっていこうと試みている作家たちである。それではひとりひとり辿っていくことにする。

大竹敦人/展示風景
大竹は、ピンホール写真の原理を利用し、内部に写真乳化剤を塗りこんだ40センチのガラス球を多摩川の水辺に置き、まわりの風景を写している。たった一点の針穴から差し込んだ光によって、天地左右が逆になった360度の周囲の世界が写しこまれているのである。それら一定の手順を踏んでいく中には、作家自身の思惑は何一つとして及んではいない。そしてそれは、人間が眼球から取り込んだままの視野と近い。
あえて意図しないことで現れたこの透明な球体は、世界をありのままの姿でとらえる。現代社会において、また、私自身のごく身の周りに絡み合う様々な思惑が洗われていくような、作為の無いその制作の一部始終は潔く、美しい。

境澤邦泰/展示風景
境澤の絵画は、一見何も描いていないように見えてしまう。近づくと、それは何層にも丹念に塗りこめられ、地層のように、スモーキーなブルーの奥から時間の層が窺える。聞けば、作者は布をモチーフとして描いているとのこと。布が見せる、瞬間瞬間の微細な変化を記録するため、境澤は独自の方法論によって制作している。それは300余に及ぶ工程が想定されているという。層を重ねていくことで、絵画の歴史と自身の絵画の構造が相似形を描く。まさに制作の過程、その「方法論」こそが彼の創作なのだ。

松井茂/展示風景
松井のフロアに入ると、白い大きな机の上にずらりと鏡がならんでいる。そして壁面には、何か意味ありげな数字の羅列。「これは??」いかにも難解な様相に少し戸惑う。
松井は詩人である。「詩とは何か」と無秩序な言葉の使用による現代詩への批判をこめて制作している。どうやら、壁面の数列と机上の鏡の並びは、同じことを表現しているらしい。と聞いてそれをどのくらいの人々が理解できるのだろう。松井はまた、コンピューターで数字を演算することでも詩を創作する。秩序によって生じる韻律を尊ぶ作者にとっては理にかなった「方法」だ。この法則に乗っ取っていれば、必ずしも言葉が用いられなくてもよいと考える。詩の持つ価値観はそうして飛躍する。

小林耕平/展示風景
小林は、これまで映像作品を発表してきた。彼の作品を初めて観たのは、2003年、都内のとあるギャラリーでの個展だった。これが5回目の個展であるという意味で、「小林耕平 5」というタイトルのつけられたその展示は、作品名もすべて数字の羅列で表記されていた。黒い空間に、白い紙で作られた幾何学的な都市模型が無音のままパンニングする。宇宙空間か、はたまた夢の中か、その万華鏡的な動きの広がりに、意識の深いところから得体の知れない不安と既知感、そして遠い憧憬を覚えた。
本展では、主に作家の生活圏で採取された映像が展開されていた。やはり無音だった。コンクリートで固められた地面の割れ目から、水が湧き出している。泥まみれのガラス板を手で拭う。その向こうに大きな樹が佇む。水面が揺らめいている。暗闇で切れかけた電灯が点滅を繰り返す。砂浜でパンパンに砂の詰まったズタ袋がどさっと倒れ、一気に砂がこぼれだす。同じく砂浜に立てた棒に、風に乗って布がひっかかり、はためく。特に脚色されたふうも無く、ただそれだけを納めた映像がループする。それらは何でもない出来事のはずなのに、じわじわと内側に染み入る。なんだろう、この叙情感は。小林耕平の作品にはなぜか“水”を感じる、そして甘美だ。

窪田美樹/展示風景
窪田は、既成のものを作品へと昇華させる。彼女なりの「方法」によって。透明のビニールシートに接着剤で描かれた作品は、現代社会の虚ろさを想起させる。ここでトレースされるのは、雑誌などの写真を拡大したもので、イメージの選択に取り立てた意味は無い。そこに何かが描かれてはいるけれど、意識して眼を凝らさないとそれが何なのか分からない。また、分かったつもりになっても、とても不確かだ。
そして一方、中古家具から出発した作品。作家が中古の家具店をまわり、入手したそれらの家具をスライス、あるいは繋ぎあわせ、パテで凹凸を埋め、削る、それからさらに表面に取り留めのないイメージを線で彫っていくこともある。そうした過程を経てこれらの作品が出現する。その家具にまつわる物語や、骨董的価値には目もくれない。そこが良いのだ。儀式的とも取れる能動的な所作の中、密やかに芳醇なものが生成されていく。

森本太郎/展示風景
森本の作品は、今展中、一見もっとも取っ付きやすいであろう。それは、一瞬にして“絵画”なのだろうなという見当がつくからだ。だからあまり構えずに、作品に向かうことができる。まず、眼に飛び込んでくるのは、立体的な輪郭線で仕切られた溢れ出しそうな色面。それは、フラット且つ丹念に塗りこまれている。輪郭線は、製菓用の道具を用いて盛り上げられ、その間に絵の具を流し込んだかのように色が存在する。イメージは既成のものをコンピューターで加工し、絵画に落とし込む。
その制作過程には、「自己」を押し出す感は無い。仕上がった作品は、よくある創作するが故の鬱屈なぞとは見事に無縁で、実にカラッとしている。しかし、これは作家の意図するところなのか、盛り上がった輪郭線から生じるわずかな光の照り返しが、フラットな色面にも影響し、画面全体から妙な艶感を発している。

豊嶋康子/展示風景
美術に触れる機会の少ない人にとっては、豊嶋のようなコンセプチュアル・アート(概念芸術)作家は非常に難解なタイプではなかろうか。見えている部分だけをただ見ても、それらを美術作品だと認識することが困難であろう。しかし、しばし覚悟を決めて、作家が何を言わんとしているのかを理解しようとしたなら、きっと共感出来るはずだ。
豊嶋は、日常生活の前提となっている無意識の「きまりごと」や「思い込み」、また美のあり方すらも問い直す。会場には、夥しい数の証券取引の記録、遺言状、臓器提供カードなどが展示されていた。それらは、社会のシステム全体の意味を問う。また《復元》という作品では、陶磁器の小さな破片から元の姿を想像しながら粘土で肉付けしていく。それはまるで、気になる何ごとかを理解しようとする時、ほんの少しの手掛かりから、少しずつ知識を増やしていき、やがてその全体とはこんな感じなのだろうと自分の中で決着をつけるのだが、その結論自体とても不確かだという事実。そんなことを考える「きっかけ」をもらった気がした。
よくもわるくも、多少理屈っぽさのある今回の展示、「第3回府中ビエンナーレ 美と価値 ポストバブル世代の7人」。腰を据えて挑めば、きっと響く何かを得られよう。私にとって、また今の世の中にとっての「美」とは「価値」とはいかなるものかと。
[text by Junko Matsuda]

