ビル・ヴィオラの修行=プラクティスとは
◆ “はつゆめ”にこめられた仏教思想
我々日本人には、“はつゆめ”というと、新年に初めて見る夢として、“縁起のいいもの”という捉え方が根付いている。1981年から日本に18ヶ月間住んでいたヴィオラは、滞在中に禅僧の田中大圓に師事し、瞑想と禅の教えを集中的に学んだそうだ。そんなヴィオラがこの展覧会のタイトルに選んだ「はつゆめ」という言葉には、おそらく、「縁起がいい」という意味も含まれているに違いない。その「縁起」とは本来、仏教用語であり、「因果応報」や「輪廻転生」の思想を前提とした言葉でもある。
◆修行としての制作
ヴィオラはインタヴュー(本展覧会カタログ「ビル・ヴィオラ:はつゆめ Hatsu-Yume(First Dream)」P182参照)の中で、「ぼくが興味を思えるのは意識、自己認識や知覚の流れ、そして自己を磨き、解放する可能性に関するきわめて限定された人間体験だ。だからその意味で、ぼくにとって芸術は活動、日々の暮らしの中で行う仕事であると同時に『修行』でもあり、ぼくとしては非常に幅広い意味での宗教の伝統に結びつくものであってほしいと思っている」と語っている。英語では「修行」「制作」「実践」はどれも「プラクティス」という言葉で言い表す。
◆日常より現実的で普遍的な空間へ
またヴィオラにとって作品を創ることは、「境界に存在する人生の暗い片隅、ぼくらがふだん過ごしているこの日常を超えた先にありながら、生命をあたえるという意味ではより深く、神秘的であり、より現実的で普遍的な空間を像として表現することを意味する」(前述P183参照)という。古代より人類は、ある方法によって“日常より現実的で普遍的な空間”へ至る実践=プラクティスを行う術を持っていた。秘儀参入=イニシエーションと呼ばれる神秘的修行だ。今回の森美術館での展覧会「ビル・ヴィオラ:はつゆめ」を、そのようなイニシエーション体験として考察してみよう。
◆古代の夢
宗教学者にして哲学者のミルチア・エリアーデによると、古代、夢とは、通常の現実世界とは異なる、もうひとつの現実への入り口だった。古代の人々はそのもうひとつの現実=異界を、神々の世界とも、また冥府とか魔界とか黄泉の世とも呼んだのである。異界に近づくための方法は、世界中の古代宗教の中に見出せる。その方法は民族ごとに特有の通過儀礼として発展し、後々の時代には宗教上の祭儀、また日常生活上の儀礼となっていった。その通過儀礼をより深く突きつめ、異界へ意識的に参入するための技術として確立したものが、秘儀参入=イニシエーションである。イニシエーションには、より深い核心へ参入していくためのいくつかのレベル=階梯がある。その階梯にそって、ヴィオラの作品ワールドを体験してみよう。
イニシエーション第1階梯
◆イニシエーションの入り口
「ビル・ヴィオラ:はつゆめ」展には、イニシエーション的な威力が満ちている。森美術館に行って、展覧会場の入り口に立つと、照明を落とした仄暗い会場の奥から、地響きのような轟音が聞こえてくるはずだ。その雰囲気はまるで、遊園地のお化け屋敷の入り口。あるいは古代人がイニシエーションに参入するときに入ったであろう、不気味な咆哮を鳴り響かせる山奥の洞穴のようだ。その轟音が収まる間隙を見計らって、会場へ入ることをお勧めする。
◆火と水のカタルシス
暗闇の会場へ足を踏み入れるとまず、空白の巨大スクリーンが我々を迎える。スクリーンの奥から一人の男がこちらに近づいてきて立ち止まる。ややすると、男の足元から小さな火が起り、やがてめらめらと燃え盛り始める。《クロッシング》という作品だ。(写真1~2参照)
我々は巨大なスクリーンの中の猛火と、その猛火の轟音に圧倒される。ここで立ち止まらずに、猛火の裏側へ行ってみるべきだ。そこでは、猛火に包まれていた同じ男が、滝のような水を浴びているのだ。(写真3~4参照)轟音は滝の奔流のような音になっている。猛火と滝の両方を行ったり来たりすると、我々は火と水の圧倒的な威力の両方を体験できる。やがて火と水と轟音がおさまる。スクリーンの中には誰もいない。男は、火に焼き尽くされたのでも水に押し流されたのでもない。炎が天空へ舞い上がって消え、水しぶきが地を叩き付けて霧散したのと同様に、男はただ、いなくなっているのだ。
◆現実と異界の交差地点を越える
スクリーンは空白に戻り、音響も消える。そのとき我々は、美術館に入る前に抱いていた日常的な雑念が、わずかにではあるかもしれないが、消散してしまっていることに気づくだろう。我々の感覚は、美術館に入る前と微妙に異なっているはずである。これは火と水によるカタルシス=浄化が起こったのだと言えよう。イニシエーションの第1段階では、日常の雑念にまみれた心=マインドを浄化しなければならない。通常の意識や感覚を引きずったままでは、異界を純粋に体験できないからだ。火と水のヴィデオ作品《クロッシング》(写真1~4参照)のタイトルの意味は、「十字形に交差する所」、「十字を切ること」という意味であるし、また「渡航する」という意味も含まれる。《クロッシング》により、現実と異界の交差点を通過した我々は、次なる作品=階梯に「渡航する」わけだ。
イニシエーション第2階梯
◆陰陽の交錯の虚像を実感する
第2の暗闇の展示会場には、《ベール》(写真5参照)という作品がある。この暗室でも風が吹き荒れているような音が鳴り響いているが、その音の間隙から微かに、秋の虫のような静謐な音色も聞き取れる。天井から9枚の半透明の紗幕が垂れ下がり、部屋の両端に設置されたプロジェクターから、一方からは男の映像、反対からは女の映像が投影され、中央の紗幕で重なり合っている。しかし、その男女の原像は互いに反対側にある。中央の紗幕での出会いは、虚像同士の出会いでしかないのだ。精神分析学者のカール・グスタフ・ユングによれば、古代の秘儀において、男と女は、世界を成立させている陰と陽の象徴でもあった。この《ベール》において我々は、陰陽の交錯の虚像をありありと実感できるはずだ。
イニシエーション第3階梯
◆内的集中力の喚起
《ベール》の暗室を出て、我々は4面のスクリーンに囲まれた展示室に入る。《ストッピング・マインド》(写真6参照)という作品だ。4面の大型スクリーンにはそれぞれ異なる風景が静止して映っている。その4面の中央に立ってみよう。すると物静かな詠唱がまるで自分の脳内で語っているかのように聞こえてくるはずだ。これは、スポットライトのある位置の天井に設置されたスピーカーからの絶妙な音響による効果だ。その何語かよくわからない詠唱は、詩の朗読のようにも、マントラのようにも聞こえるのだが、その内なる声に心の耳をそばたてると、不思議な内的集中力を喚起されることだろう。
◆意識を感覚から開放するプラクティス
自分の内側へ向かう集中力が高まった瞬間、全く予告なしに突然、大音響とともに4面のスクリーンの風景が踊り狂ったかのようにいっせいに動く。そして数秒後には風景と大音響は静止する。我々の感覚はその一瞬、パニックに似た軽い眩暈に陥るはずだ。何事が起きたのか把握しきれないうちに、また脳内にはマントラのような詠唱が静かに響く。そこで再び内的集中がなされるが、またもや突然に周囲の風景が躍動し、内側に集中した我々の意識は外側へ強引に惹起されるのだ。そういう対極の感覚を何度か体験するうちに、我々の意識は一種の浮遊感を修得するはずだ。この浮遊感は、内的意識が肉体的感覚からずれたことに起因するのかもしれない。
◆振魂の術による異界参入
太古から秘儀参入の術には上述のような、意識を肉体的感覚から開放させる術があった。古代神道や密教修行ではそれを「振魂の術」と読んだ。感覚をパニックに陥りさせ、意識=魂を肉体から一瞬だけ開放させる術である。山伏修行で修行者を断崖からつるすのもこの振魂術の一種だし、イスラム教スーフィの旋回運動や、原始キリスト教の洗礼儀式で入信者を水の中に一瞬だけ溺れさせたのも同様の秘儀から発展したものだ。《ストッピング・マインド》はまさにそのタイトルの意味通り、感覚に結びついたマインド=通常の理解力を静止させ、意識のみを肉体感覚から開放させるプラクティスとなる。そうやって開放された意識が、異界へ参入し得るのだろう。
イニシエーション第4階梯
◆天と地、あるいは誕生と死の交錯
イニシエーション第3階梯で振魂と内的集中の術を多少なりとも実践=プラクティスした我々は、次の展示室で、第2階梯の《ベール》とは異なる、もうひとつの陰陽をじっくりと考察できる。柱のような木製の建造物が床と天井から延び、ちょうど目の高さあたりに、白黒のヴィデオ・モニターが2台設置されている《天と地》(写真7参照)という作品だ。上のモニターには老女、下のモニターには生後間もない赤子の顔が映し出され、モニターの表面には互いの顔が映り込み、重なっているように見える。その老女はヴィオラの実母であり、赤子は実子だそうだ。赤子が生まれたとき、ヴィオラの母親はもはや他界していたという。
◆感覚界のベールの向こう側へ
現実世界で実際には出会わなかった二人…、天から地上に誕生した赤子と地上を去って天へ昇った老女の映像が、ヴィデオ・モニターの中で交錯しているのだ。第2階梯の《ベール》というタイトルには、「我々の感覚界を覆っている幕」という意味も含まれているに違いない。その幕=ベールの内側で我々は、男と女という陰陽の乖離を実感した。だが内的集中と振魂を第3階梯で通過した我々は、《天と地》という作品の中に、死者と生者の乖離ではなく、ベールの向こう側、つまり感覚界を超えた異界においては、死者と生者の魂は交錯している…。というふうに感じ取り得るのではないだろうか。
イニシエーション第5階梯
◆見えざる時間を感じ取る
次の展示室の《グリーティング/あいさつ》(写真8参照)の前にはソファーが置かれているので、そこに座ってこの作品をゆっくりと鑑賞できる。このヴィデオ作品は10分間の映像が続く。中年女性と老女が話をしている所に、若い女性が現れる。老女は歓喜の表情で若い女性を迎える。若い女性が何事かをささやくと、老嬢はさらに至福の笑みをこぼすが、無視された中年女性は明らかに不機嫌そうだ。しかもその中年女性の視線がじっと我々のほうに向けられるのだ。このストーリーは実は45秒間のワンカットで撮影されているそうだ。それが10分間のスローモーションで再生されている。
◆見えざる感情の真実を感じ取る術
13倍以上に引き伸ばされた10分間の映像を前にして、この3人の女性の内側にある、実際には45秒間の感情を、我々はどれほど読み取れるものだろうか。確かに、45秒では見逃してしまう心の機微を、たっぷりと感じ取れるはずだ。しかしそうするといくつかの謎が返って膨らんでしまうだろう。その謎を解くには、ある歴史的知識が必要なのだ。ヴィオラが試みたのは、そのような知識を持たずにも、作品に登場する人間の内側で起こる真実の感情を、我々はどこまで感じ取ることができるのか。また、それを感じ取ることによって、歴史的真実にどこまで近づけるか、ということだったのではないだろうか。
◆宗教的真実に対する感情移入力の限界を知る
《グリーティング/あいさつ》は、16世紀の画家ポントルモの《聖母のエリザベツ訪問》をモチーフにした作品だ。キリスト教、あるは聖書に知識のある人ならば、聖母マリアが従姉妹のエリザベツを訪問して何を語ったのかを知っている。マリアは、聖霊の御業によってキリストを受胎したことを告げに来ているのだ。エリザベツのほうも実はこのとき、聖霊により受胎している。後にマリアが生むのはイエス、そしてエリザベツは洗礼者ヨハネを産む。後々、ヨハネは人類で最初に、イエスを神の子だと宣言する人になる。つまり《グリーティング/あいさつ》は、キリスト教にとって最大の歴史的事件のひとつを再現しているわけだ。そんな宗教的真実を我々は、作品の中の若い女性と老嬢の表情と仕草の中に正確に感じ取ることが出来るのか…。答はたぶん「否」だ。中央に立つ中年女性の冷淡な視線と同様に、我々は受胎告知の僥倖を語り合うマリアとエリザベツの内面にある真実にまでには、感情移入できなかったはずである。ここで我々が自覚すべきことは、知識としての無知の知ではなく、感情移入によっては他者の感情の真実を図りしえないという、共感力の限界だ。
イニシエーション第6階梯
◆人間の表情の中の普遍性
《アニマ》は、実際には1分間の映像を81分に引き伸ばしてスローモーションで見せる作品で、ヴィオラの手がけた〈パッション〉シリーズの一環をなす。二人の女性と一人の男性の顔が肖像写真のように液晶モニターに映っている。一見すると静止画のようだ。しかし男女の俳優たちは、「喜び」「悲しみ」「怒り」「怖れ」という感情を表現しており、モニターにじっと見入っていると、微かな、しかし確実な表情の変化を読み取ることができる。タイトルの“アニマ”とは、ユングが唱えた「男性の人格の無意識的な女性的元型」を指しているのだろうが、この作品での《アニマ》は、男のアニマと女のアニムス両方を含めた、“人格の元型”という意味合いなのではないだろうか。我々は隣人の顔をこんなにじっと見つめ続けることはない。しかし81倍に引き伸ばされた時間の中で、我々はモニター上の男女の表情に、人間の普遍的な感情表現を実感できるはずだ。
◆共感力のプラクティス
この第6階梯において我々は、ヴィオラが「パッション」シリーズで制作した一連の諸作品を通して、他者の感情に対する共感力を習得するための修行=プラクティスを体験実践することができる。それは第5階梯で痛感し得た共感力の限界を、第6階梯のプラクティスによって、少しでも拡大あるいは深化させるための試みでもあるだろう。個々の作品に関して詳細な解説を試みることは、この論考が長大になってしまうので割愛するが、はっきりと言えることは、我々がこの第1階梯から第4階梯までのプラクティスを通して修得し得た、ある特殊な意識レベルを迷妄の中に堕してしまわないためには、第5階梯における感情移入力の限界の自己認識と、第6階梯での一連のプラクティスを通過しなければならないということだろう。
◆異界に向けられた視線を隣人に向ける
ここで我々は最初に立ち戻り、ヴィオラが創ろうとした“日常より現実的で普遍的な空間”、つまり異界に参入しようと試みること自体の意味を問い直さなくてはならない。異界の中に日常よりも現実的で普遍的な空間があるならば、この日常の中には何があるのか、と。人間の日常にはリアリティも普遍性もないのだろうか。否。ヴィオラが宗教的伝統にこだわったのは、その神秘的修行法だけではなく、宗教上の帰依や日々の規律や隣人愛といったもののプラクティスも重要視したからではないだろうか。古代の神秘修行においても、異界に入り込みすぎて日常をないがしろにしてしまうことを非常に戒めた。人間が人間としてこの地上に誕生した意味は、異界に住むことではなく、日常を生き抜くことにあるからだ。秘儀参入の修行によって異界を垣間見た意識が、日常を超えたリアリティを実感したうえで、日常の隣人に向けられるとき、プラクティス以前には見出せなかったリアリティと普遍性を他者の中に感じ取れるはずだ。
◆ミクロコスモスとしての隣人
《ドロローサ》や《静かな山》(写真9参照)においては、モニター上の人物の衣装には、《グリーティング/あいさつ》のような特別な演出はされておらず、いかにも隣人風の設定である。我々はモニターに映るスローモーションの人物の表情や動作に、どっぷりと感情移入を試みることができるだろう。次の《驚く者の五重奏》と《オブザーヴァンス》は群集風景であり、何らかの深刻かつドラマティックな設定を想像し得るが、登場人物たちの服装はやはり隣人だ。この一連のスローモーション映像による〈パッション〉シリーズの作品を通して、我々は隣人としての人間を真正面からたっぷりと見つめるプラクティスを体験できる。古代ギリシャでは人間を、宇宙の法則=マクロコスモスが投影されたミクロコスモスだと考えた。その意味で我々は、ヴィオラが作品の中で映し出した隣人たちの中に、「より現実的で普遍的な」真実=宇宙的な法則を感じ取り得るのではないだろうか。
◆静謐な祈り
ここまでくると我々の意識は、集中力の緊張持続に多少なりとも疲れ、激しいエクササイズの後のような幾分心地よい弛緩状態になっているかもしれない。横に並んだ4つのモニターの中で、それぞれ世代の異なる人間の両手が、手印を組んでいるような《四人の手》(写真10参照)。あるいは横1列に並んだ5つのモニターの中で、それぞれ異なる人間が生活をしているような《キャサリンの部屋》(写真11参照)。この二組の作品の前で、我々はいくらかリラックスしてみてもいいだろう。そこに静謐な祈りの力のような充溢を感じ取れるはずだ。
◆せめぎ合う融合
そして次の《サレンダー/沈潜》(写真12参照)に向かうと、この作品の苛烈な陰陽のせめぎ合いに、改めて向き合うことができる。「改めて」というのは、第2階梯の《ベール》で表現された陰陽の乖離とは対極にある、陰陽による融合を体験できるはずだからだ。その融合は決して安逸なものではなく、あたかも“核融合”のような爆発的な眩暈をともなうものであるだろうが。
◆水の再生
そうして我々は《ラフト/漂流》(写真13~15参照)に向かう。この作品は、高速フィルムで撮影された映像を極度なスローモーションで見せている点では、第6階梯で考察してきた〈パッション〉シリーズの諸作品と同質であるが、18人という多人数の群集と、その群集に大量の水を噴射した瞬間を捉えているという点で、異質である。《ラフト/漂流》以外の作品では、登場人物の表情や仕草を凝視することで、我々は人間の内面に意識を集中させてきた。登場人物=役者たちも、自身の内的感情の発露だけに集中していたことだろう。だがこの《ラフト/漂流》では、激しい大量の奔流を浴びるというダイナミックな偶然性が、群集を突き動かす。登場人物たちの表情や仕草は予測できない激流に翻弄されている。そして奔流が止んだ後の登場人物たちの内面は、明らかに水の威力に浸透されているのだ。しかもその威力から立ち上がる姿を我々は凝視させられる。イニシエーション第1第階梯のプラクティスは“水の浄化”だった。《ラフト/漂流》は、浄化を経て様々な階梯を辿り、深化した我々の意識を、“水の再生力”と同化させてくれるかもしれない。その再生力の実感が、次の第7階梯のプラクティスには必要だ。
イニシエーション第7階梯
◆ “天使”と名づけられた超越的なリアリティ
最後の展示室。我々は暗く大きな部屋に入り込む。衝撃だ! イニシエーションとしてこの展覧会の各階梯を辿ってきた者にとっては、きっと…。
《ミレニアムの5天使》(写真16~19参照)はまさにタイトル通り、“天使”の世界だ。この展示室には大きな5つのスクリーンがあり、各スクリーンの映像は「旅立つ天使」「誕生の天使」「火の天使」「昇天する天使」「創造の天使」と名づけられている。各映像について論考することは控えよう。我々は暗い展示室の中央に立ち、ただ呆然と5方向をあちらこちらと眺めやりながら、空間全体から押し寄せてくる圧倒的な印象に全身全霊を委ねてしまえばいい。もはや言葉では表現しがたい、神秘的かつ宇宙的なリアリティを感じ得るに違いない。いや、自身がそれを感じているという感覚ではなく、超越的なリアリティに自分の魂が同化してしまっている、と思えるほどの至福感に満たされるかもしれない。
この長い論考も、もう終えよう。どうぞご自分で、「ビル・ヴィオラ:はつゆめ」のイニシエーションとしてのプラクティス・アートを体験してもらいたい。
[text by Junichi Ishikawa:Art inn chief editor]
参考文献
ミルチア・エリアーデ著「世界宗教史」
ルドルフ・シュタイナー著「秘儀参入の道」「神秘的事実としてのキリスト教と古代密議」「秘儀の歴史」
カール・グスタフ・ユング著「人間と象徴」
デヴィッド・エリオット監修「ビル・ヴィオラ:はつゆめ」展カタログ(森美術館)
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