1960年代から現在までの時代の波を体感できるディープな写真展
「球体写真二言論 細江英公の世界」は東京都写真美術館で
2007年1月28日まで開催中
細江英公さんは1950年代末から今日まで日本の写真表現の新しい世界を常に切り開いてきた写真家だ。海外では、日本人の写真家として一番知られている写真家の一人であり、また日本の写真家として最初に評価を獲得した写真家でもある。本特集では細江英公さんご自身による作品解説をムービーと共にお届けする。 (学芸員によるオープン解説前半・後半) | |
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【おとこと女】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
土方巽との出会い
「おとこと女」は最初の写真集で2回目の展覧会でした。1959年から1960年の春先まで、約6ヶ月の間に撮影したものです。このきっかけが大事。1959年に、丸の内の第一生命ホールで土方巽が初の公演を行った。題名は「禁色」。これは三島由紀夫の同名小説です。そのときに土方巽は三島由紀夫を訪問し許諾を得ている。いろいろ話を聞いているとなかなかな面白い人物だということでね。「禁色」の公演のときに三島由紀夫も観に来ていた。しかし「禁色」はあまりにも暗くてね。本当に暗い中で蠢いている感じでね。時折、鶏の鳴き声がキキキキっと鳴いて、血が滴り落ちているようなね。
「おとこと女」解説ムービー1
これはいったいなんだ! と僕は震撼させられた。その肉体と踊りの作り方がすごかった。僕が知っていた踊りの一般的概念とは全く違うものだった。終わってすぐに楽屋にかけこんで行って、君はこんなにすごいのかって叫んだ。
その前から僕は彼を知っていたんですけどね。津田信敏さんの稽古場に土方くんはよくきていた。津田さんのそのときの夫人がその後の土方夫人の元藤燁子さんです。元藤さんとは1955年くらいから知り合いで、よく遊びに行って写真を撮っていた。ある日、目のギョロッとした男が来ていた。それが土方巽だった。で、驚いた。だけど僕は舞台の写真家ではないんで、舞台の写真を撮ろうとは思わなかった。それで土方巽を僕だけの空間に置いてね。僕だけの被写体で撮りたいと思った。それで彼に話したら、やると言った。それでVIVOのスタジオに、一週間おきくらいに来てもらった。
「おとこと女」はほとんどVIVOのスタジオで撮ったもの。
いろいろ撮っているうちに、何を撮りたいのか。土方巽を撮りたいのか。違うんだね。土方巽は重要な被写体だけど、そのテーマは、人間と生と死。あるいは人間の生きることと死ぬこと。これはいわば当時の文学の世界では、世界的な意味での共通のテーマだったのだけど、写真の世界にはそういうテーマは全く欠けていた。
1960年安保闘争という時代の波
それともうひとつ、1960年の安保闘争。これは大変な政治的なものではあったのだけど、僕らにとっては政治そのものではなかった。時代のそういうものという感覚だった。安保条約の中身を誰が読んでいたかというと、誰も読んではいなかった。しかし我々もかなり動かされた部分もあった。土門拳の「ひろしま」という写真集の中から写真を借りて、大きな行灯を造って中にロウソクを中に入れて我々がそれを持って球場前までデモをしたりね。僕らにとっては政治デモというより、アーティスティック・デモという感じだった。僕の心の中では決して満足すべきものではなくて、時代に対して自分がどうやって関わっていいのかわからない閉塞感という感じがあった。
暗室が銀座に近い築地にあった。窓を開けると銀座のほうからシュプレヒコールが聞こえていた。「岸を倒せ! 安保反対!」ってすごかった。そういうのを聞きながら、こんなきれいな写真を作って何が出来るんだ、と思った。もっと強いものが絶対必要だと思った。それで人為的に白と黒をカチカチにしてね。ストレートにやってもこういうのは出ないから技術的にもいろいろ試して、そこに映る男と女の存在、というものをいろいろやった。

←たとえば、この写真。女性のモデルは日本一のヌードモデルと言われた女性です。本当は絵のモデルだったのだけど。土方巽にも来てもらってね。この写真を撮っているとき、スタジオに土方巽がぱっぱっぱと歩いてきた。あ、面白いと思ってね。ボーンと胸に迫ってきてね。これだ! と思った。この写真を撮ったときは嬉しかった。
「おとこと女」解説ムービー2

←これはね、目のお化粧は、日劇の前でダンサーが買っている店から化粧品を僕が買ってきてね。女性はきれいにする化粧しかしないでしょ。でも僕は目玉をギョロっとしたかった。それでこういうメイクを僕がした。首を抱えていこうと思った。背景を暗くして、目をじっとあけてカメラを見ろと指示して、10秒くらいシャッターを切らないと、目が充血して動向が開いてくる。そこでシャッターを切る。ちょっと置いてまた撮る。だから3枚くらいしか撮れなかった。

→最後にこの小鳥の写真を撮った。この2羽の小鳥は違う小鳥なんです。神谷町の交差点のところにあった店で2羽見つけた。あ、と見つけたとき、一羽は男性的、もう一羽は女性的に見えた。これをこう、力強く、ぐっとやれば、死んじゃうじゃないですか。つまり我々は、生きているのではなくて、生かされているのではないか。というようなことをね、この写真で撮ろうと思った。
【薔薇刑】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

三島由紀夫との出会い
「おとこと女」の写真集を見た三島由紀夫がね、俺の写真を撮ってもらいたいと僕に連絡してきた。三島由紀夫が、「あれ、いいよ、ああいうふうに撮ってくれと」言った。「じゃあ、僕は勝手に撮ればいいんですか」と聞いたら、「そうです、僕は細江さんの被写体になるんだから」とおっしゃった。被写体という言葉に違和感を覚えんだけどね、「薔薇刑」の63年初版本には「細江英公写真集 被写体及び序文 三島由紀夫」とある。こういうふうに書いてくれと三島由紀夫が言った。それで言われるままにタイトルにしたんです。
最初は何をどういうふうに撮るか曖昧だったけど、そのうちに「おとこと女」の基本的な姿勢を三島由紀夫に置き換えてやろうと思った。
一言で言えば、形式としては極めて主観的なドキュメント。ドキュメントという限りにおいては、三島由紀夫の家であったり、持っているもの、関わりのある人とか、三島由紀夫と関係するもの、場所に限定して撮影した。最初は三島由紀夫の家で撮影した。
「薔薇刑」解説ムービー1
三島由紀夫の特技
それ以前にね、土方巽を撮った写真を見せてくれと三島さんは言ったのでね、この人は舞踏家にあこがれているんじゃないかと僕は思った。1週間前くらいに土方巽の若者の身体にゴムホースを巻きつけた写真を撮ったばかりだった。それと同じことを三島さんにもしてやろうと思った。
三島さんの家で撮影をしているとき、ちょうどお父さんが庭で水を撒いていたので、お父さんにホースを借りて、僕の助手に、三島さんの身体をホースで巻きつけさせた。そして余ったホースの先を「すみません、口にくわえてください」「こうか」「そうです」と頼んでくわえてもらった。それから三島さんの右手が開いていたので何か持たそうと思い、またお父さんに木槌を借りて、三島さんに持たせて、頭を叩く仕草をさせた。そしてキャメラのレンズをずっと見つめてもらった。35ミリのフィルムを2本撮る間、三島さんは5分間、目を開けっぱなしだった。

「すごいですね」と言ったら「ハッハッハッハ、俺の特技は5分間まばたきしないことなんだよ」と。僕は、参ったなと思った。
そのうち三島さんがどんどんどん乗ってきた。僕はまだアイデアが浮かばないのに、突然僕の麹町の事務所に三島さんがやってきてね、今日は暇? とか言ってきた。そんなことが度重なってお互いに盛り上がった。

三島さんはイタリアのルネッサンスの絵画が好きだった。そういう絵の複写をたくさん持っていた。そういう芸術作品には、その所有者の魂が宿っている。だからその絵を使い、それが時にはキリストであれ、ユダであれ、とにかくその中の人物に三島由紀夫を入れ込むということをやった。
薔薇というのは、使うにしろ使わないにしろ、いつもスタジオに買って持って行っていた。
←これは黄色い薔薇です。
「薔薇刑」解説ムービー2
写真集タイトル「薔薇刑」の由来
撮影が終わって、写真を展覧会に出すとき初めて、文学者としても三島由紀夫に写真集のタイトルを頼んだ。翌日速達でハガキが着て、5つくらいタイトルが書いてあった。死と笑いの饒舌とか、何とかのブンソウ曲とかあって、最後に「薔薇刑」とあった。まさにこれだと思って、すぐに三島さん電話して、これもらいますに言ったら、もちろんもちろんと言って。ですから1961年の終わりに「薔薇刑」というタイトルが生まれ、1962年の1月1日に写真展が開催され、今日までそのタイトルできているわけです。
【鎌鼬】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「鎌鼬」解説ムービー1
疎開した山形の原風景
この写真集の基本的背景にあるものは、大東亜戦争。昭和20年、僕が小学校6年生で東京の学校から、母親の郷里である山形県の米沢市に疎開をしました。それからちょうど1年後に東京に帰ってくるのですが、その間に広島に原爆の投下があり、日本の敗戦があった。そして敗戦の3週間後くらいに東京に帰ってきた。
それ以来ずっと東京ですが、やはりなんかね、自分の12歳のときの疎開したときの思い出、記憶を記録したいなと思った。しかし写真は現在目の前のものしか撮れない。記憶なんていう目に見えないものをいかに映すか。でも写真家がそう願うのも自然なのだから、写真術を使って自分ができるものは何かと考えた。
「鎌鼬」解説ムービー2

そこで土方巽なのです。
土方巽は秋田出身なのです。土方巽と酒とか飲みながらね、秋田の話しをした。僕は山形の田園牧歌を撮りたいと話した。だけどもうずいぶん変わってしまった。だけどまだどこかに少し残っているかもしれない。
土方巽を撮るなら土方巽の生まれ育ったところ、同じ東北、それをドキュメントすることが、僕の記憶と記録にもつながると思って、じゃあ、やろう! となったわけです。
そして1965年の9月十何日に3日間、秋田県雄勝郡羽後町という所に行ったのです。
土方巽の原風景
彼が懐かしいという田代というところに行って、そこで2日間、完全な犯罪的行為を犯しつつ、ハプニングを行いました。
↑これは稲を干すんです。現在も、これは田代にあります。こういう高い稲干しは、秋田でも田代にしかないようです。ここは土方巽にとっては懐かしい場所なのです。彼はその辺を走り回っていたのですが、あれに登ってよというと、すすすすーとここに登っていくんです。背景が全部舞台なんです。自然という背景なのです。興奮した。そのうち、背景の雲が変わるんです。こういうのは長いことは撮れません。
「鎌鼬」解説ムービー3

←これは土蔵の中です。誰も住んでいない村の庄屋で、牢屋みたいな土蔵です。土方君は懐かしいそうな顔で「こんにちは」と言って入っていく。そこに留守番のようなあじいさんがいたので、すばらしいから写真を撮らせてくれと頼んだ。おじいさんが用事で出かけている間に、3時間くらいかけて、自分の家みたいにして撮った。終わって、その夜に、お礼にお酒を2升買って持っていった。1升ではだめなの。お土産の酒は2升なんですよ。

←これも、あそこに人がいるんでやろうやろうと、言って撮った。土方君は農家の人たちの間にすすすすーと入っていった。最初は農家の人たちは驚いて不思議そうに土方君を見ている。で、僕が写真を撮っているんだけど、そのうち皆、僕の存在も忘れてしまう。農家の人たちの笑顔がね、山形に疎開した人たちの笑顔だった。心が洗われるみたいで、これは僕にとっては非常に懐かしい写真です。遠くに少年が一人いるんですよ。これはもしかして僕じゃないかって。なかなか田舎の人たちに馴染めない自分なんじゃないかって思った。

←これはね、土方巽がテレビだテレビだって騒ぐんですよ。1965年当時はテレビはたいへんな力を持っていた。東京オリンピックが1964年だから。僕の持っている35ミリのカメラをテレビカメラだと思ったんでしょうね。それで僕は皆に出演してくださいと頼んで、撮ったんですよ。で、この村ではね、将来「かまいたち美術館」を作りたいと言っているんですけど、まだなかなか実現していないんですけど。

【抱擁】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「抱擁」という写真集は、1969年から70年の作品ですが、その10年前に僕が千葉の海岸で土方巽と後に彼の夫人となる元藤さんをモデルにして撮ろうとして、いろいろの事情で実現できずにいたものです。
10年後にどうしても忘れられずに、彼らの弟子たちをモデルにして撮った。スタジオの中を丸く囲んで、真ん中にライトを灯して、僕がどこから撮っても陰にならないようにして35ミリで撮ったものです。
いうなれば35ミリの肉体のスナップです。
「抱擁」解説ムービー

【胡蝶の夢 舞踏家・大野一雄】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「胡蝶の夢 舞踏家・大野一雄」は大野一雄さんが今年100歳になられて、それを記念して出版した写真集です。11月末に出版された細江英公の最新写真集です。
「胡蝶の夢 舞踏家・大野一雄」解説ムービー
この写真集の作品は1960年から撮り始めたものです。
僕が土方巽のスタジオによく通っていたとき、土方巽の「禁色」の後の第2回目の公演で、「ディヴィーヌ抄」という作品に大野一雄が客演したんです。
僕は見に行き、そのとき大野さんを街頭で撮ろうと思った。で、いろいろ撮った。それが最初だった。
だけどその時から1977年まで大野さんは自分の公演はしていなかった。学校の先生をしていた。1977年に大野さんが復活したときの演出が土方巽だった。
それから77年78年と、ずっとほとんど毎年大野さんは新しい作品を発表した。ちょうどその頃、日本の文化を海外へ紹介しようとようとする大きなムーブメントがあった。
たとえば日本の文化の中で、舞台芸術をヨーロッパに送ろうすると、日本には歌舞伎や能があったが、それは日本独自の古典です。でも今の踊りは何かと言ったら、モダンダンスの変形か、モダンバレエの変形か。それしかない。それは日本のオリジナリティではない。
そういうものを本場のヨーロッパに持っていっても偽者という印象を与えてしまう。そうすると日本が誇る独自のものと言ったら、土方巽から始まる舞踏だと思う。土方巽自身はヨーロッパには行っていないが、大野一雄は土方巽の演出した舞踏を持って、ヨーロッパにもアメリカにも行った。それがすばらしい感動を与えた。まさに心と心の結びつきですよ。
それが1977年から今年まで続いている。これから100歳の記念で大野さんは外国へ行くのです。
←これは2005年12月の写真です
大野先生は本当の意味では踊れないのです。でもこれは、先生の最も身近であった弟子たちに先生の前で踊ってくれと頼んで撮った写真。先生は、意識があるようでないような非常に朦朧とした状態の中で、でもやっぱり意識があるんですよ。だから30年来の愛弟子の上杉さんが「先生、先生」と呼ぶと、何か大野先生は「ほー」と表情を変えるのです。
←これはスペイン人の10年来の弟子のジョアン・ソレルですけど、彼が先生を見つめる目は、キリストを見上げるスペインの信者みたいな顔に見える。
←これは笠井叡さん。大野さんを引き継ぐ、最高の舞踏家だと思いますけど、彼が先生の前で踊ると大野さんは「俺も舞踏家だ」というような厳しい表情をする。もちろん受け入れているんですよ、自分のかわいがった弟子だから。
←最後に、これは大野さんの生後1ヵ月半のお孫さん。お母さんに頼んで、裸にしておじいちゃんと撮らせてくれと。おじいちゃんの上に乗せたらね、笑ったんですよ。これでこの写真集は終わったと僕は思った。
そしてこれを写真集の本編の最後のページにしたのです。
「春本・浮世絵うつし」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「春本・浮世絵うつし」解説ムービー
(2006年12月8日 東京都写真美術館にて収録)


細江英公さんは1950年代末から今日まで日本の写真表現の新しい世界を常に切り開いてきた写真家だ。海外では、日本人の写真家として一番知られている写真家の一人であり、また日本の写真家として最初に評価を獲得した写真家でもある。