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 メルシャン軽井沢美術館「千住博の眼 印象派とその源流 モネ、ルノワールとバルビゾン派の巨匠たち―東京富士美術館コレクション」



 日本画家、千住博氏(京都造形芸術大学学長/本展覧会監修)の眼を通して、19世紀の近代絵画、印象派を経て、20世紀に至る西洋絵画史の流れを辿る展覧会。
 バルビゾン派と言われるトロワイヨン、コロー、ミレーなどの風景画から、モネ、ルノワール、セザンヌなどの印象派の作品、そして、ユトリロ、キスリングなどエコール・ド・パリの作家、さらにはクリムト、シャガールなど、近代絵画の巨匠の作品を東京富士美術館所蔵の珠玉のコレクション48点を通して、じっくりと鑑賞できる。

会期 2007年7月14日(土)~11月25日(日)
開館時間 9:30~17:00 ※入館は閉館時間の30分前まで
休館日 火曜日(7・8月は無休)

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本特集では、バルビゾン派の作家たちと印象派の作家らとの繋がりを探る。



バルビゾン派とは

 19世紀のパリは、市民革命と産業革命により、めまぐるしく発展した。とりわけ、ナポレオン三世の第2帝政期に当たる1852年から1870年にかけては、都市整備の開発がパリ郊外にまで急激に押し進められてた。
現在のフォンティーヌブローの森  そのような喧噪の波に、創造力を妨げられたのだろうか。パリに住んでいた画家、ジャン=フランソワ・ミレーやジャン=パティスト・カミーユ・コローたちは、フォンティーヌブローの森にあるバルビゾンに次々と移り住んだ。パリの南方約60キロのところにあるその小さな村には、開発の手が及んでいなかったのだ。
 バルビゾンに広がっていた昔ながらの風景に驚いたミレーは、カンヴァスを戸外に持ち出し、絵画制作を始める。そして最初に描いたのが、「種まく人」だった。
 働く農民の姿や羊や牛などの家畜を風景画に、取り込んで描いた彼らは、自然の側に身を置き、五感で感じる感性に忠実になることで、多くの名作を生みだした。
  それまでの風景画は、古典的、歴史的主題の背景の一部として認知されているに過ぎなかったのだが、自然を主題とし、ありのままに表現するというバルビゾン派の活動により、風景画は再認識されるようになる。
 彼らの絵画は、全く新しいジャンルとして美術史上に大きな成果を残し、後の印象派以降の画家達に多大な影響を及ぼすことになる。





ジャン=バティスト・カミーユ・コロー
Jean-Baptiste Camille Corot (1796~1875年)

 コローがフォンティーヌブローの森で最初に制作を始めたのは1822年だった。 パリで衣服商を営む裕福な家に生まれたコローは、父親の要望でいったんはパリの織物商の店員になったが、画家になる夢を抱き、野外スケッチに明け暮れていた。 1830年には、七月革命を避けてパリから再びフォンティーヌブローに移りって制作をした。

 コローが名実ともに評価されるようになったのは1846年、人物のいない森の風景画という野心作『フォンティーヌブローの森』がサロンに入選した頃からだ。この作品は詩人のボードレールにも好評を得る。

 フランス政府がコローの作品を買い上げるようになり、1855年のパリ万博美術展に出品した作品はグランプリを受賞。ナポレオン三世が『マルクーシの思い出』を買い上げた。
 彼の作品は、19世紀の自然主義、写実主義、印象派の流れの中で大きな位置づけになっている。

《もの思い》1865-70年代 油彩、カンヴァス
ジャン=パティスト・カミーユ・コロー《もの思い》1865-70年代 油彩、カンヴァス
 
 今回展示されている《もの思い》は、コローの晩年の作品だ。
 画面はロマンティックな夢想と、夢見るような憂愁に満たされた、詩的で静謐な空気に包まれた世界が描き出されている。
 また、特徴的な背景は、特定の場所ではない架空の、また普遍的な自然そのものの雰囲気を醸し出している。

 晩年のコローは、自分の工房に多くの下絵描きの助手を通わせ、自らが仕上げをして多くの作品を制作した。そして絵を売ったお金は、孤児院、修道院、貧しい画家やモデルなどに与えた。
 コローはまた、バルビゾン派の若い画家たちを援助し、「コロー親父さん」と呼ばれて慕われ、1875年にパリで死去した。







コンスタン・トロワイヨン
Constant Troyon (1810~1865年)

 磁器製作所の絵付け職人の家庭に生まれたトロワイヨンは、若い頃から、磁器絵付師として働きながら、森での写生に励んだ。20代の頃には風景画でサロンに出品し、入賞している。
 トロワイヨンがフォンティーヌブローの森で制作を始めたのは1840年からである。1847年にオランダ旅行をした彼は、著名な動物画家のアルベルト・カイプやパウルス・ポッテルの絵画に感銘を受け、帰国後に、家畜を画面に取り入れた絵を制作するようになる。

 そして1849年にレジョンヌ・ドヌール勲章を授与される。トロワイヨンは、バルビゾン派の中で最もはやく成功した画家と言えるだろう。
 またトロワイヨンは、のちに印象派の画家たちが好んで採用した筆触分割の技法を考案したと言われている。筆触分割とは、太陽の光を構成する七色のプリズムを重視し、キャンバスの上にその七色を混ぜずに描くというものだ。

 トロワイヨンは1859年にパリで、19歳のモネと出会っている。彼は若きモネに野外での制作を勧めた。今回展示されている《家畜の群れ》は、この頃に制作された作品だ。

《家畜の群れ》1850-60年代 油彩、カンヴァス

コンスタン・トロワイヨン《家畜の群れ》1850-60年代 油彩、カンヴァス

 この《家畜の群》、風景画家と動物画家として知られたトロワイヨンの両方の特徴が良く出ている。
 近景の牛の群れを主役に大きく扱い、遠近法の消失点をその向こうの人物付近に置いて、画面の中央の彼方へと視線が届くような構図となっている。
 午後の放牧から帰る牛や羊の群れに、夕暮れの叙情を託して描いた動物画家の典型的な小品のひとつだ。
 トロワイヨンは1865年にパリで死去した。






ジャン=フランソワ・ミレー
Jean-Francois Millet (1814~1875年)

 ノルマンディー地方の農家に生まれたミレーは、若い頃から画家になることを夢見ていた。
 ミレーが、後のバルビゾン派の画家たち、コンスタン・トロワイヨン、シャルル・エミール・ジャック、テオドール・ルソーらとパリの街で出会ったのは1846年のことだ。
 その時ミレーは32歳。2年前に妻を結核で亡くしたうえ、作品はほとんど売れないという赤貧の状態にあった。

 1848年にパリでは、労働者、農民の不満の高まりに端を発した2月革命が起きる。その暴動によりパリの治安は混乱し、コレラが流行した。
 このコレラを避けるため、1849年にミレーはバルビゾンの森に疎開した。そして翌年、サロンに『種まく人』を出品したのだった。
 その後、1857年に「落ち穂拾い」、1859年には「晩鐘」といった名作を世に送り出し、ミレーは名実共に評価され、金銭的な貧困から抜け出すことになる。

《鵞鳥番の少女》1866-67年 油彩、カンヴァス
ジャン=フランソワ・ミレー《鵞鳥番の少女》1866-67年 油彩、カンヴァス
 今回展示されている《鵞鳥番の少女》は、ミレーが世界的名声を獲得し始めた頃の作品だ。
 下書きの線が透けて見えるほどに、油絵具の着彩を薄く施す「フロッティ」画法によって描かれている。
 透明色の薄塗りが水彩画のような清々しさを与え、夏の強い日差しに映し出された透明な水辺の雰囲気を描出している。
 牧歌的な主題で、穏やかで心和む世界を描いた幸福な一幅の名画だ。

 ミレーは1875年にバルビゾンで死去。終生、バルビゾンの地を愛したミレーは、8年前に他界した友人ルソーと、墓地を隣にして埋葬された。





カミーユ・ピサロ
Camille Pissarro (1830~19004年)

 ピサロはカリブ海ヴァージン諸島にあるセントトマス島で生まれ、12歳から17歳までパリ郊外の寄宿学校で学んだ。再びパリを訪れたのは1855年、25歳のときだった。このとき、パリ万国博覧会の美術会場を訪れたピサロは、風景画家のジャン・パティスト・カミーユ・コローの作品に衝撃を受けた。
 その翌年の1856年、26歳のピサロはコローのもとを訪れる。このときコローは60歳で、名実共にパリの美術界の第一人者だった。
 コローはピサロに、風景から受けとった最初の感興を指針とすることや、戸外で描くことを教えた。その後ピサロは、パリの北部モンモランシーの森で、実際に自然を見ながら描くようになる。

 またピサロがパリでクロード・モネと出会ったのは1859年。ピサロ29歳、モネ19歳の時だった。その後、モネを介してポール・セザンヌやアルフレッド・シスレーとも出会う。
 彼らと一緒に、サロンとは別の展覧会を組織しようと、率先して奔走したのはピサロだった。そうして1874年、ピサロが44歳のときに、第1回印象派展が開催されたのだった。

 印象派の画家の中で最も年長で、温厚な性格だったピサロは、印象派主義の中心的存在だった。また、セザンヌのよき理解者であり、ポール・ゴーギャンの発見者でもあった。

《春、朝、曇り、エラニー》1900年 油彩、カンヴァス
カミーユ・ピサロ《春、朝、曇り、エラニー》1900年 油彩、カンヴァス
 今回展示されている《春、朝、曇り、エラニー》は、ピサロが70歳のときの作品だ。ピサロは生涯のほとんどを貧困に耐えながら過ごしたが、60歳を過ぎてようやく経済的に安定した。
 この作品においてピサロは、同じ場所の中で視点を移動し、風景を様々な角度から切り取り、春夏秋冬の変化、朝、昼、夕の一日の変化を、晴れ、曇り、雨、雪の気象の変化を自在に操りながら、描いている。
 青い空と緑の大地、春特有の花曇りの日差し、暖かな大気を震わせるような明るい光が、平和で牧歌的な情景を生んだ作品といよう。
 この作品の3年後、ピサロはパリで死去。葬儀には、モネ、ルノワール、ベルナール、マティスなど多くの画家たちが参列した。





クロード・モネ
Claude Monet (1840~1926年)

 ノルマンディー地方で少年期を送ったモネは、19歳のとき、パリに出てコンスタン・トロワイヨンのもとを訪れ、教えを受けた。
 モネがフォンティーヌブローの森にあるシャイイ・アン・ジュールという小さな村を訪れたのは、アルジェリアでの兵役からパリに戻った翌年、1863年の4月だった。
 その時モネは23歳。友人のルノワール、フレデリック・バジール、アルフレッド・シスレーと共にシャイイ村に滞在し、外光の下で、バルビゾン派の影響の濃い風景画を描いた。
 その時の作品としては《フォンティーヌブローのシャイイの道》などがある。

 モネは、1863年にエドワール・マネが発表した《草上の昼食》に魅了された。そして1865年の春から夏にかけて再びシャイイ村で過ごし、マネの作品名と同じ題名の《草上の昼食》を手がける。フォンティーヌブローの森で描かれたこの作品はモネによって、まさしく絵画制作の革命となった。

 モネがセザンヌ、ドガ、モリゾ、ピサロ、ブーダン、ルノワール、シスレーらと一緒にパリで第1回印象派展を開催したのは、1874年。その年から「印象派」という呼び名が生まれる。
 モネがフォンティーヌブローの森で制作した時期は、まさに「印象派」そのものの胎動期だったとも言えるだろう。

《睡蓮》1908年 油彩、カンヴァス

クロード・モネ《睡蓮》1908年 油彩、カンヴァス

 今回展示されている《睡蓮》は、モネが68歳の時にジヴェルニーで描いた15点の連作の中の1点だ。
 若く貧しかったフォンティーヌブローの時期に比べ、この時のモネは名声も富も得ていた。
 作品は明暗の差を極力抑え、ロココ的ともいえる繊細で優美な色彩と装飾性を実現している。モネの膨大な睡蓮の作品全体の中で、この作品は最も軽快な作風となっている。
 この18年後、モネはジヴェルニーの自宅で86歳の生涯を終えた。





ピエール=オーギュスト・ルノワール
Pierre-Auguste Renoir(1841~1919年)

 貧しい仕立屋の家に生まれたルノワールは、少年期からすぐれた画才を示していた。13歳で陶磁器職人のもとに預けられ、陶磁器の絵付師として仕事をしている。

 20歳のときに、当時のリアリズムの巨匠であったシャルル・グレールのアトリエに通い、そこでクロード・モネ、アルフレッド・シスレーらと知り合う。
 ルノワールが、フォンティーヌブローの森で、バルビゾン派にならい風景のスケッチを始めたのは1962年、21歳の時だ。
 友人のモネ、シスレー、フレデリック・バジールらと一緒に、自然の中で直接、モティーフにとり組みはじめた。モネが風景に強い関心を示したのに対し、ルノワールは戸外の人物に惹かれた。

 ルノワールは1866年にもシスレー、ジュール・ル・クールとともにフォンティーヌブローの森を訪れている。
 この頃に《フオンテーヌブローの森の画家ジュール・ル・クール》を制作したが、この時期のルノワールは、モネと同様に貧困にあえいでいた。

 ブーダン、セザンヌ、ドガ、ギョーマン、モネ、モリゾ、ピサロとともに第1回印象派展に参加したのは、1874年、ルノワールが33歳のときだった。
 このとき彼は、7点を出品。展覧会は大失敗に終り、世間からは激しい非難と皮肉いっぱいの批評を受けたが、ルノワールの作品は、《桟敷席》など3点が売れた。
 それ以降、ルノワールの作品は少しずつだが、確実に評価され、生活も安定するようになった。

《読書する女》1900年頃 油彩、カンヴァス

ピエール=オーギュスト・ルノワール《読書する女》1900年頃 油彩、カンヴァス

 今回展示されている《読書する女》は、ルノワールが59歳の時の作品である。
 この頃の彼はリューマチに苦しんでいたが、富と名声は充分に得ていた。
 作品は、気楽な格好で誰の眼も気にせずに、一人、本を読み耽る女性の姿が、背後から捉えられ、画面は力強く伸びやかな筆致でまとめられ、活き活きとしている。
 ルノワールはこの作品の19年後、78歳で生涯を終えた。。





ポール・セザンヌ
Paul Cezanne(1839~1906年)

 セザンヌは、南フランスのエクス・アン・プロヴァンスで、富裕な銀行家の長男として生まれた。
 若い頃のセザンヌは、父親の要望によりエクス大学で法律を学ぶが、画家になる夢を断ち切ることはできなかった。
 絵の勉強をするためにパリに出たのは1861年、セザンヌが22歳のときだ。翌年にはフレデリック・バジール、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワールと出会っている。
 その後、セザンヌは何度もサロンに作品を出品するが、そのたびに落選した。

《オーヴェールの曲がり道》1873年頃 油彩、カンヴァス
ポール・セザンヌ 《オーヴェールの曲がり道》1873年頃 油彩、カンヴァス

 今回展示されている《オーヴェールの曲がり道》を描いた頃、セザンヌは、9歳年上のカミーユ・ピサロと特に親しくし、ともに制作をしていた。
 この時期のセザンヌは、朝と午後に1回ずつ、毎日2回写生に出かけ、懸命に制作活動を続けていた。

《オーヴェールの曲がり道》には、後のセザンヌ絵画の特徴ともいえる「斜めの」「構成的な」筆触の萌芽も見られる。またこの絵は、1901年に著名な米国人蒐集家に購入され、アメリカに渡ったセザンヌ作品の第一号という歴史的な過去を持っている作品でもある。

 この作品が制作された翌年の1874年、セザンヌは第1回印象派展に3点を出品し、《首吊りの家》が100フランで売れた。
 セザンヌは1879年以降、印象派展には出品しなかったが、その年にフォンティーヌブローの森に近いムランで制作を手がけ、また晩年まで、しばしはフォンティーヌブローの森の近くで制作活動している。

 セザンヌの絵がようやく評価されて売れるようになったのは、彼が50歳を過ぎてからだった。1895年の個展を契機に、セザンヌは若い画家たちが最も尊敬する存在となったのだ。
 「自然を円錐と円筒と球体で扱うこと」というセザンヌの、自然の幾何学的秩序の発見は、のちにピカソ、ブラックらのキュビスムを生む要因となり、20世紀現代美術の源泉ともなっていった。

 1904年、国際的にも評価されていたセザンヌは、フォンティーヌブローの森でしばし過ごしている。
 その2年後、67歳でセザンヌは死去した。戸外で制作中、嵐に打たれて肺炎をこじらせたのが原因だった。



※作品はすべて東京富士美術館所蔵



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